堀ちえみが「共感!」するように考える教育基本法「改正」反対アジ演説テンプレート その3 オプション

話の流れや必要に応じて、こういうことも訴えたらいいんじゃないかと思うこと。

【1】
 教育を国家が管理するための条文として、改正案の16条には、「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」とされ、17条(教育振興基本計画)では、「政府は、教育の振興に関する施策の(・・・)基本的な方針及び講ずべき施策その他必要な事項について、基本的な計画を定め、これを国会に報告するとともに、公表しなければならない」としています。法律を制定すれば、時の政府の都合のよい教育を現場に押し付けることができ、教育振興基本計画では、国会の議決を必要とせずに施策を文科省の官僚が決定できるのです。役人が天下りを確保しようと不必要な仕事を大量に盛り込んでも、国会で否決することはできません。


【2】
教育改革を叫ぶ人びとが、実際どのような考えを持っているのか、知っておいてください。ここに挙げるのは、前の教育課程審議会会長・三浦朱門氏が、あるジャーナリストとのインタビューのなかでいったことです。
「ただでさえ学力低下と懸念されているに、なぜ「ゆとり教育(授業数3割削減)」をするのかと質問したところ、
「平均学力なんて低い方がいい。日本が平均学力を高水準に保ったのはできもしない落ちこぼれの尻を叩いた結果だ。その結果全体の底上げは出来たが、落ちこぼれの手間ひまをかけたせいでエリートが育たなかった。だから日本はこんな体たらくなんだ。したがってこれからは、限りなく出来ない非才無才は勉強などできんままで結構。勉強などせず実直な精神だけ養ってもらいたい。落ちこぼれに金と労働力をつぎ込まず、効率よくエリートさえ育てばいい」と答えた。」
また、ノーベル賞受賞者江崎玲於奈氏は「人間の遺伝情報が解析され、持って生まれた能力がわかる時代になってきました。これからの教育では、そのことを認めるのかどうかが大切になってくる。ある種の能力が備わっていない者がいくらやってもねえ。いずれは就学時に遺伝子検査を行い、それぞれの子どもの遺伝情報に見合った教育をしていく形になっていきますよ。」
「教育改革国民会議」では、「子どもを厳しく「飼い馴らす」必要があることを国民にアピールして覚悟してもらう」といっている人もいます。


【3】
更に改正案では、憲法の「平和主義」が後退しています。現行法前文の「真理と平和を希求」が改正案では「真理と正義を希求」になっています(ボードを示す)。これは改正案2条5項の「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度」に移動しただけだから問題ないと思われるかもしれません。しかし、「国際社会の平和と発展に寄与する」や「世界の平和と人類の福祉の向上に貢献する」という言葉が、政府関係者の口から出るのはどのような時でしょうか。まさに、「自衛隊を海外に出したい出したい」という時ではないでしょうか。事実「国際社会の平和と発展に寄与する」という言葉が自民党が04年11月17日に発表した「草案大綱」の表現とほとんど同じであることを指摘するひともいます*1。どうやら、この教育基本法が則っているのは現行憲法ではないようです。ところで「国際社会の」といった言葉とともに出る「平和」はいいのに、なぜただの「平和」は削除しなければならないのでしょうか。これは、「平和」を「安全保障」の枠内に閉じ込めよう、または「平和」は国家の専権事項である。ということではないでしょうか。市民ひとりひとりが平和を願い、行動することは政府にとって邪魔なのかもしれません。一方ユネスコ憲章にはこのような言葉があるのをご存知の方は多いと思います。「戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない 」と。たしかに、平和を考える上で具体的な国際政治を理解することは不可欠です。しかし安全保障の論理だけで「人間ひとりひとりの平和」を考えないなら、今のイラク戦争のように「安全」や「戦争の予防」のために、逆に戦争を起こしてしまったりする本末転倒を犯してしまうかもしれません。

【4】
でも、これは学校教育だけの話だとお思いの方もいるでしょう。いいえ決してそうではありません。教育の目的(第一条)や教育の目標(第二条)は、後のすべての条文にかかります。社会教育(第十二条)や政府の改正案で新たに付け加わった、家庭教育(第十条)幼児期の教育(第十一条)などにも影響します。そして、学校、家庭および地域住民などの相互の連携協力(第十三条)では「学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする」とされています。「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」ですから、法律さえ定めれば、家庭や博物館にも、「地域住民その他の関係者」の方々が「不当な支配に服することなく」ドンドン干渉することができます。これはほとんど戦前の「隣組」以上です。