堀ちえみが「共感!」するように考える教育基本法「改正」反対アジ演説テンプレート その2、つづき


現行教育基本法と政府提出の改正案を比較してみましょう(ボードを示す)。よく現行法への批判で、「「個人の尊厳」の重視がわがままな子どもを育てるのだ」という批判があります。しかし、これは「個人の尊厳」が盛り込まれた背景や、教育基本法の性格を理解していません。「個人の尊厳」の文言は、先の大戦以前には、個人を戦争の道具として育成するための教育を、国家が教育を支配しつつ行ってきたことの反省にたっています。人間を単なる「人口」や「兵力」「将来の兵士としての子どもを生む機械」ではなく、一人ひとりが一人ひとりとして大切にされる教育が目指されたのです。「子どものための教育」、それが現行法の理念です。現行法は国家が教育に対してできることとできないことを定め、政府を規制するための法律なのです。
改正案の前文には、(ボードを示す)とあります。前半に「国家を更に発展させる」後半に「我が国の未来を切り拓く教育」という言葉がでてきます。「個人の尊厳〜人間の育成期するとともに」というのは、目指すべき「徳目」です。つまり、前文では、「国家をさらに発展させ、未来を切り拓くため、子どもに法律で定めた徳目を身につけさせる教育を国が行う」ということです。その「徳目」の詳細は、改正案の第2条で列挙されています。ここで注目していただきたいのは、教育に関して肝心の子どもや、実際に勉強する人の姿が影も形もなく、やたら「国が国が」という姿勢が目立ちます。それはこの前文が、「国家の発展」が第一で、「国民の幸福」はそれに従属するべきだ、という国家観によって書かれているからです。「国家の発展」と「国民の幸福」が無関係とはいえませんが、「国家の発展」が第一となると、現行憲法の精神にも反する、むしろ古い考え方です。「徳目」も、子ども自身のために身につけさせるのではなく、「国家の発展」のため、ということになります。だから、今回の改正によって目指されるのは、「国家のための教育」といえます。安倍首相や伊吹文科相は、「徳目」が基本法に加わったことで「新しい理念を付け加えた」「足らざるところを加えた」といっていますが、その拠って立つ根本理念はむしろ大変古くなっているのです。
また現行法が施行されて以降、国際連合総会が1959年に採択した「子どもの権利宣言」や、日本も1994年に批准した「児童の権利に関する条約」など、こどもを一個の権利主体としてみなす世界的な流れがあります。このような状況がありながら、教育においてその点に踏み込んだ表現にならないのは、後退しているといわざるをえません。
このように見ていくと、この改正案の前文は、「教育を、国家のためになる人間を国の都合で作り出すための道具に戻します」と高らかに宣言しているのと言っていいでしょう。「子どものための教育」から「国家のための教育」へ。こんなことを皆さんは政府に求めているのでしょうか?「そんなことをいってると、国の為に尽くそうという人材が育たない」という人がいるかもしれません。たしかに個人が「国の役に立とう」という希望をもつことはいいことです。しかし、それは、「国が国に都合のよい人間を作り出すために教育を支配していい」こととは全く違います。今の政府はつまり、一億三千万人の日本人を信用していないのです。
「教育の再生」の名のもと「21世紀にふさわしい教育」どころか、19世紀的な(富国強兵)教育の復活である改正案を、異常なかたちで強行している。これはもはや一種の国家的な詐欺です。彼らの「教育の再生」が、さも子どものことを真剣に考えているふりをして、実際には子どもや保護者、教育者の立場など眼中になく、国家の利益しか頭にないのです。いくら現在の子どもをめぐる状況がひどくても、「子どものための教育」を「国家のための教育」にしてくれ、など私たちは頼んだ覚えはありません。いまならまだ間に合います。でも、時間はありません。子どものために、「子どものための教育」を守ろうとしていただける方は、国会にその意思をぜひ届けてくださいますようお願い申し上げます。