改正反対!:政府案前文にあらわれている「こどものための教育から国家のための教育へ」という転換について

ほんとに争点?愛国心 - 善哉新報(休刊中)の続きです。そろそろアップしないといけないと思っていた項。一応論証部分も書いたけど、日本語がむちゃくちゃなのとあともすこし論拠の補強が必要なので、とりあえず序論のみアップします。<(_ _)>


マスコミの多くが教育基本法「改正」案の最大の論点が「愛国心教育に賛成か、反対か」という形で報道しており、それに民主党が対案を提出してしまった効果も加わって、真の争点、「子ども(を含む学習者)のための教育か、国家のための教育か」が隠蔽されているのが現状である。この状態では「愛国心教育」にとくにアレルギーを持たず、教育の現状に不満を持つ一般の市民に教育基本法改悪反対の世論を作り出すことは不可能である。またいじめ問題や未履修問題で教育現場や教育委員会への不信が強まり、政府の介入のを容認する世論ができ(作られ)つつあるとすれば、改悪反対派は敗北せざるをえない。そこで政府案の前文にあらわれている「“こども(を含む学習者)のための教育から国家のための教育へ”という転換」*1について強く指摘することにより争点設定権を奪い返すことが必要だと、前回*2―により不安がる保護者が「きちんと国が決めてこどもをしつけてくれると助かる」と考えているとなると、ここを直接たたく効果も薄いと考えないといけない。ところでいま私が「丸腰」とか「直接」とかいう言葉を使用した。それは、これらをきちんとした文脈の中に位置づけ、政府案の真の狙いを浮き彫りにした上でなら、批判の効果があると考えられるからだ。それゆえ政府案の前文にあらわれている「“こども(を含む学習者)のための教育から国家のための教育へ”という転換をまず指摘したたく必要がある。そして愛国心にさほどアレルギーを持たず、愛国心教育に賛成であっても、「お国のために命をささげる」という価値観までは共有できていない市民層には教育基本法の改正が「国家のための教育」であることを論証し強調することをアピールすることが有効だと考えられるからだ。
(つづく)

*1:これは安倍総理の教育理念でもある「教育の目的は、志ある国民を育て、品格ある国家をつくることだ。そして、教育の再興は国家の任である。」『美しい国へ』安倍晋三

*2:))のエントリでとりいそぎ述べた。それでは、なぜ、政府案前文にあらわれるこの論点をまず前面にだして批判すべきなのか、なぜ他の論点ではいけないのか、という点について触れておきたい。 たとえば現行法10条の「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである 」が「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない」(政府案16条)となり、行政権力が「不当な支配」の対象からはずされ大きな裁量権を持つものと規定されたこともたしかに大問題である。しかし、いじめや未履修問題で末端の教育現場に世論の厳しい目が向けられており、政府の介入を期待するような風潮ができている現状では、ここを丸腰で批判しても効果はない。また、政府案2条の「教育の目標」の新設についても、法律で国定の徳目を決めて強制するという、内心や良心の自由にかかわる大問題なのだが、いじめ問題や、少年犯罪の増加や治安の悪化―本当はデマなのだが((ここなど参照http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20061030#1162144290