「内心の自由」の衝突

http://d.hatena.ne.jp/holyagammon/20060924/1159098107

・・・本人の中で国旗国歌に対して宗教的信念に近い思い入れがある人が、いるかどうかしらないがいるとすると、国旗国歌に対して少しでも冒涜的な(と、その人が考える)態度をとればそういうひとの「内心の自由」を侵すことになってしまう?。学習指導要領を改正して、国旗国歌の式典での扱いを現在より穏当な表現に改めたとき「入学式・卒業式という大事な行事に国旗国歌がないというのは、私の信念では国旗国歌に対する冒涜である。私の内心の自由が侵害された!!」と抗議されるかもしれない?。・・・

ということを述べてみたのだが、下のような意見が実際見つかった。
朝日新聞2007年3月9日に掲載された、奈良県の自営業(67歳)の方の「国旗と国歌に戦争責任ない」という投書から一部引用。

(前略)
 公立学校教員を退職するまで、私はずっと日の丸を仰ぎ、君が代を歌い続けてきましたが、戦争は起きませんでした。私の父はシベリアでソ連軍によって殺されました。誰よりも戦争を憎んでいます。でも、戦争は日の丸と君が代のために、起きたのではありません。
 軍国主義を復活させる因子は、旗や歌ではなく、われわれ国民自身の政治認識の中に」あるはずです。軍国主義に悪用された日の丸と君が代に、戦争責任のぬれぎぬを着せてはいけません。
 オリンピックの表彰台に立つ日本の代表選手の姿とともに、強い感動を与えてくれる日の丸と君が代。私は愛しくてなりません。日本国民としてのアイデンティティーを意識させてくれる国旗と国歌が否定されることは私にとって、憲法が保障する「個人の尊重」が侵されることになるのです。

「公共の福祉」とかで考えて。片方が一方的に我慢を強いられる制度ではなく、両者を調整する原理が必要。