産経の本音

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曽野綾子によれば、いじめで「自殺した当人」が真っ先に責任の一端を担うべきだそうだ。

その一言を、苦しみ抜いて自殺した当人に言えるのだろうか。嘆く遺族の前で「自殺したあなたの息子・娘が悪いのですよ」と言えるのだろうか。

言えるのだ。言い放てる人々が、いじめを支えているのだ。

しかし、そういう言葉を吐ける人のことを、「美しい国」の言葉では、「人でなし」と呼ぶのではなかっただろうか。

▼産経の主張は曽野の意見を「その通りである」と前提にしてから、但し書きとして、いじめられた側、いじめた側に責任の軽重は「なくはない」とお茶を濁している。

つまり、明快に「いじめられた側に責任がある」としている。

この思考が、自殺に追いやられた側・遺族にまで「責任」を強いる、感情を強張らせた、暴力的な精神土壌を育てる。

http://takeyama.jugem.cc/?eid=682*1
さんがすごい産経社説にお怒りである。産経新聞が社説で明快に「いじめた側に責任がある」と主張しているらしいのだ。
産経ニュース

作家の曽野綾子さんは本紙のコラム「透明な歳月の光」(30日付)で、こう書いている。「私が違和感を覚えるのは、だれが悪いという犯人探しである」「自殺した当人も親も先生も、いじめをした側の当人も親も先生も、そして同時代の社会全体も、共に責任の一端を担うべきだろう」

 その通りである。ただ、責任の軽重はなくはない。いじめた生徒とその親たちの責任はやはり重い。厳しい反省が求められる。

 いじめ問題に限らず、教育は、学校と家庭、地域社会の3者の協力によって成り立っている。近年、共働き家庭の増加もあって、親が行うべきしつけまで学校に頼るようになった。いじめっ子をしかる近所の怖いおじさんも少なくなった。学校に負担をかけすぎた面を反省する必要がある。

おいおい、ほんとに自殺した当人の責任が第一になっているぞ!。「いじめっ子をしかる近所の怖いおじさん」て・・・。いじめが近所の怖いおじさんのいる前で行われるとでもおもてるのか?。いじめに関する認識がものすごう低いまま印象論とノスタルジーだけで社説書いていいんか?。id:suuuuhiさんの本嫁。
ところでその、曽野綾子の「透明な歳月の光」(30日付)とは、これである。さらに驚くべき重大な事実が明らかになる。

 ここのところ、急にいじめの問題が大きくとりあげられて来たが、私が違和感を覚えるのは誰が悪いという犯人探しである。
 一般論だが、小学校五、六年生にもなれば、責任の半分は当人のものである。大体その年になると見近に起きたことを親にも話さなくなる。私の場合で言えば、親に秘密の読書を始めた。親にこれこれの本を読んでいますといっても別に怒られなかったような気もするのだが、こんな本を読んでいると知ったら取りあげられそうな気がしたのである。
 世間一般の道理として、道を歩いていて自動車に轢かれたり、旅行先で自然災害に遭うような場合を除いて自分以外の誰かが百パーセントの責任を負うということはない。自殺した当人も親も先生も、いじめをした側の当人も親も先生も、そして同時代の社会全体も、共に責任の一端を担うべきだろう。
 (中略)*2受ける権利ばかり主張して、他人に与える行為をすることはあたかも損なことのように言い続けた日教組的教育が、受けることばかり期待する子供を育てた。受けてばかりいる間は、もっと受けて当然という底なしの欲求にいつもさいなまれているから、人間は満足ということを知らない。不満だけが残るから、いじめでもしてその不満を解消することになる。
 その点、弟妹の世話をしたり、両親の苦労を共に背負って立っているような子供は、自分の存在がすでに役に立っていることを知っているから、他人をいじめて満足する必要などない。おおらかなものである。
 人間関係で、これはだれの責任だ、と的を一人に絞って言い切れるケースは極めて少ないものだ。皆が多かれ少なかれ責任を有している。誰々のせいだ、と言い切ることは小児的で、非常に危険な発想である。
 有名な作家がいた。若い頃、学歴が低いということで、現地採用で勤めていた全国紙の新聞社でいじめられた。その時にいじめた相手を、後年この大作家は彼の作品の中で一人一人殺していったという説がある。これから、いじめられた子は皆作家になって、作品の中で復讐しながら大金を儲けてほしいと思う。
 ある大劇作家は、若い頃自分を振った女優たちを、後年全部役の上で脱がせて行ったという嘘かほんとかわからない話もある。死なないで心身共に強い人間になることだ。

突っ込みどころが多過ぎてお話にならない。少し突っ込めば、日教組なんて影も形もないイギリスや北欧諸国でもいじめで自殺者がでているという報告を内藤先生も取り上げている*3。大作家や大劇作家の例などまるで陰湿なストーカーだ。こういう言説が「いじめインストール社会」を補強していく。
しかしさらに重要なことは、そうすると産経社説は、「「当人の責任が半分」であることを認めたうえで「責任の軽重はなくはない」と但し書きした」ことになる。加害者の責任はどう多く見積もっても49.999999・・・・%となる(残りの0.00000・・・・%をその他の関係者や「同時代の社会全体」でわける)。でなければ、曽野綾子がこの短いコラムの中で「当人の責任は半分」といっていることに対し、「その部分には同意できない」という意見をつけるのが筋だろう。それとも曽野綾子大先生の意見に同意できない部分があるなんていえない事情でもあるのか。産経新聞のいじめに対する姿勢が所詮そんなもので、むしろいじめる側に加担することが明らかになった。そんな新聞が教育基本法改悪を強烈に支持しているのだ。改悪後はいじめが激増するか、いじめが教育と一体化して不可視化し、さらに悲惨な事態が社会から隠蔽された中で進行していくことだろう。
ところで産経社説では産経ニュース
ここで八幡太郎ヤンキー義家がこうのたまっている。

 安倍晋三首相直属の諮問機関「教育再生会議」の委員に選ばれた義家弘介氏は、一部新聞のインタビューで「自殺した子供が遺書を残していた事実を1年以上も非公開にしていた教委に何の権限も渡せない。まず教委にメスを入れ、国が教委評価をやるべきだ」と言っているが、その通りだ。

教育への国家介入をやむなしという言質を取られ、産経に利用されている。「コドモの策は綻びにけり」ってやつだ(なんのこっちゃ)。

*1:私はここのエントリ全体の内容をよく読んでみたが、産経が同意してはならないはずのことのような、私にとって違和感を持つ部分はなかった。

*2:親戚の人は両親より一緒に過ごす時間が短いので事情はもっとわからないだろう、という内容

*3:『いじめの社会理論』p28、29